9オコエ瑠偉

     

    記者「楽天のオコエ瑠偉外野手(19)が15日から2軍に合流します」

     デスク「チームがブッチギリの首位で、すっかり存在を忘れてたけど、1軍じゃなくて、ようやく2軍昇格かよ。何やってんだ」

     記者「春季キャンプ3日目に右手薬指を骨折し離脱。4月中旬から育成試合に出場したものの、足首を捻挫して再び欠場。ここへきてようやく状態を上げてきたそうです」

     デスク「昨オフにレンジャーズのダルビッシュと一緒に自主トレをやった選手は軒並み活躍しているのに。ケガがあったとはいえ、ダメなのはオコエだけじゃないか?」

     記者「キャンプ直前に生活態度などを梨田監督から一喝されましたが、今でもあまり変わっていないなんて話も耳に入ってきます」

     デスク「楽天は外野の層が厚くて、梨田さんが『4人守らせたいぐらい』なんて言っているぐらいだから、オコエが1軍に上がるのは大変だ。キャラが立つ男だけに、また話題を振りまいてほしいけどな…」

    http://www.zakzak.co.jp/spo/news/170614/spo1706140013-n1.html

    1: 2017/06/09(金) 09:33:48.76 ID:8tgjqqoR0
    悲しいなぁ

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    1: 2017/06/06(火) 01:01:43.09 ID:wy7vjFI10
    球界のスターになる存在やぞ

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    1: 2017/06/04(日) 09:31:03.89 ID:WTdqtgYa0
     一連の経緯には、梨田昌孝監督が「野球をなめている」と怒ったと伝えられた。また、一部週刊誌には、シーズンオフに恋人とハワイに旅行していたとも書かれている。

     仙台でオコエに会い、本人の言い分を聞いた。

    【オコエ、言い訳をする】の続きを読む

    1: 2017/06/05(月) 07:16:37.64 ID:rOuxn+/+0
    今なにしてるんや

    【【悲報】オコエさん、ガチで消える】の続きを読む

    昨季、高卒新人で開幕一軍入り。球団初の快挙だった。しかし今季はキャンプ2日目に離脱。プロ選手は誰もが一流の素質を備えるが、輝き続ける選手はごく一握り。「壁」はうすいようで分厚い。

    「早熟」の脆さ

    中学で注目され、高校で甲子園に出場し、そのままプロ入りを果たす。そんな絵に描いたような"天才球児"ならではの野球人生を歩んでいたのが、オコエ瑠偉だった。

    2015年、高校野球選手権大会で夏の甲子園を沸かせ、その年の秋にドラフト1位で楽天イーグルスに入団。1年目の昨季、さっそく初本塁打を放って鮮烈なデビューを飾った。そんな19歳のスター候補が表舞台から消えて、しばらくたつ。

    1年目は結局、打率1割8分5厘に終わった。成長した姿を見せるべき2年目の今年も、久米島キャンプ2日目にケガでチームから離脱。右手薬指付け根の側副靱帯損傷で、縫合手術を受けた。3月いっぱいリハビリに費やし、4月に練習試合でやっと実戦に復帰したが、一軍はまだ遠い。

    一連の経緯には、梨田昌孝監督が「野球をなめている」と怒ったと伝えられた。また、一部週刊誌には、シーズンオフに恋人とハワイに旅行していたとも書かれている。

    仙台でオコエに会い、本人の言い分を聞いた。

    「指のケガは、去年からバットを振り過ぎたのが原因です。キャンプ初日の不注意なんかじゃなかった。監督に怒られてもいません。オフの間も、ちゃんとトレーニングはやってましたよ。ハワイでも、ウエートやランニングをやってます。彼女も一緒でしたけど、それはご飯をつくってもらう必要もありましたから」

    いつの時代も人気選手はマスコミの好餌にされがちだ。それでも、野球の話になると、「状態はいいです」と強調する。

    「リハビリ中も下半身は鍛えてたから、ダッシュのタイムが上がってる。いまは野球がやりたくてウズウズしています」

    高校時代から、オコエの身体能力の高さは折紙付きだった。183cm、85kgの体格に、高校通算37本塁打のパワー、157kmというプロ選手並みのスイングスピード、遠投120mの強肩、50m5秒96の俊足。最近ではウエートで筋肉をつけ、見るからに逞しくなった。

    昨季、高卒新人で開幕一軍入り。球団初の快挙だった。しかし今季はキャンプ2日目に離脱。プロ選手は誰もが一流の素質を備えるが、輝き続ける選手はごく一握り。「壁」はうすいようで分厚い。

    ※連載第1回はこちら⇒ http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51417

    「早熟」の脆さ

    中学で注目され、高校で甲子園に出場し、そのままプロ入りを果たす。そんな絵に描いたような"天才球児"ならではの野球人生を歩んでいたのが、オコエ瑠偉だった。

    2015年、高校野球選手権大会で夏の甲子園を沸かせ、その年の秋にドラフト1位で楽天イーグルスに入団。1年目の昨季、さっそく初本塁打を放って鮮烈なデビューを飾った。そんな19歳のスター候補が表舞台から消えて、しばらくたつ。

    1年目は結局、打率1割8分5厘に終わった。成長した姿を見せるべき2年目の今年も、久米島キャンプ2日目にケガでチームから離脱。右手薬指付け根の側副靱帯損傷で、縫合手術を受けた。3月いっぱいリハビリに費やし、4月に練習試合でやっと実戦に復帰したが、一軍はまだ遠い。

    一連の経緯には、梨田昌孝監督が「野球をなめている」と怒ったと伝えられた。また、一部週刊誌には、シーズンオフに恋人とハワイに旅行していたとも書かれている。

    仙台でオコエに会い、本人の言い分を聞いた。

    「指のケガは、去年からバットを振り過ぎたのが原因です。キャンプ初日の不注意なんかじゃなかった。監督に怒られてもいません。オフの間も、ちゃんとトレーニングはやってましたよ。ハワイでも、ウエートやランニングをやってます。彼女も一緒でしたけど、それはご飯をつくってもらう必要もありましたから」

    いつの時代も人気選手はマスコミの好餌にされがちだ。それでも、野球の話になると、「状態はいいです」と強調する。

    「リハビリ中も下半身は鍛えてたから、ダッシュのタイムが上がってる。いまは野球がやりたくてウズウズしています」

    高校時代から、オコエの身体能力の高さは折紙付きだった。183cm、85kgの体格に、高校通算37本塁打のパワー、157kmというプロ選手並みのスイングスピード、遠投120mの強肩、50m5秒96の俊足。最近ではウエートで筋肉をつけ、見るからに逞しくなった。

    Photo by iStock

    しかし、首脳陣の評価は厳しい。昨季、つきっきりで指導した楽天の一軍チーフコーチ、池山隆寛ははっきりとこう指摘する。

    「オコエの打撃を建築に例えたら、まだまだ土台づくりの最中です。それ以前に、柱にする材木を鉋で剃ってる段階かな。

    具体的な欠点を言うと、バットを振るときに左脇が開くのでスイング軌道が安定しない。いろんな方向にブレる。これではプロのスピードや変化球にはついていけません」

    早くまともなスイングができるようにならないと、これからの野球人生がほんの数年で終わってしまう恐れもある。そういう危機感がオコエには必要だ、と池山は言う。

    「問題は、オコエ本人にそういう意識があるのかどうか。去年から練習に遅刻したり、持って来るように言った道具を忘れたり、何をやらせても長続きしないんですよね」

    なまじ生まれつき素質に恵まれた若者は、そのぶん他人より容易く結果を出せるため、もっと力をつけようという意欲や執着心に乏しい。それが10代のころに素質が開花した選手の脆さであり、その後の伸びしろを失う大きな要因でもある。

    遊びみたいなもんだった

    よく知られているように、オコエはナイジェリア人の父、日本人の母を持つハーフである。1997年7月、東京都東村山市に生まれた。瑠偉はルイ・ヴィトンから採られており、元サッカーの日本代表・ラモス瑠偉に倣って同じ漢字を当てている。

    ナイジェリアではサッカーが盛んで、父・ボニー(56歳)は当初、オコエをサッカー選手にしようとした、とも報じられた。が、オコエ本人は笑って首を振った。

    「小さいころはいろんなスポーツをやってましたね。サッカー、ゴルフ、バスケットボール。そうやって子供を育てるのがナイジェリアのスタイルですから。

    習い事というより、遊びながらうまくなる感じ。家にはバスケのゴールもあったんで、よく妹(桃仁花・18歳)と一緒に遊んでたな」

    母・早苗(45歳)も、若いころはバスケットをやっていたという。家にゴールリングを付けたのも、母の考えだろう。

    オコエが野球を始めたのは6歳で、近所の経験者に手解きを受けたことがきっかけだ。小学1年で東村山ドリームというチームに入団し、「最初はユニフォームが嫌いでTシャツに半パンで野球をやってました」というところがオコエらしい。

    198cmとオコエより一回り大きな父・ボニーは、息子に野球をさせることにとくに熱心だったわけではない。貿易関係の仕事でナイジェリアに行き、家を空けることも多かったため、「一時はなかなかお父さんに会えない時期もありました」とオコエは振り返る。

    それでも、素質は味方も敵も圧倒していた。

    「地元でやっていた相手は、投手の投げる球が遅過ぎてね、簡単にホームランを打てちゃう。ショートゴロでもぼくの足で走ればセーフになるし。正直、それほど力を出さなくても勝てました」

    小学1年で相手を見下ろしているほどだったのだ。6年で3番・捕手となり、都大会2連覇、関東大会3位。さらには巨人のジュニアチームにも選ばれ、NPB12球団トーナメントで準優勝。そうした活躍が地元の中学生チームの名門、東村山リトルシニアの監督・渡辺弘毅の目に止まった。

    ここでも、オコエの力は中学1年から頭抜けていた。渡辺が振り返る。

    「守備と走塁に関しては抜群でした。1年生で3年生の試合に出られたぐらいです。捕手から外野手に回したら、フライの落下点に入る足の速さ、送球する肩の強さ、どちらも一番でした。盗塁にしても、ふつうの子なら教えられてもできないセンスを最初から持っている。だからいつもノーサインで走らせていました」

    最大の課題は、のちにプロで壁にぶつかる打撃だった。渡辺が続ける。

    「身体的特徴として手足が長い。上半身の力も並の中学生とは違う。力任せにバットを振り回しても届くし、当たったら飛ぶんです。でも、そんな打ち方を続けていると、どうしても上半身が突っ込んで、バットが遠回りするようになっちゃう」

    いわゆる「手打ち」の状態で、ふつうの子なら凡打するから直しようもあるが、オコエはなまじヒットにできるから打ち方を変えられない。そのため、「中学ではずっと下半身を使う打撃ができないままだった」というのが渡辺の悔恨である。

    しかも、オコエはよく練習をサボった。外野の守備練習の最中、「ションベン行ってきます!」と言っては、グラウンドの右翼側にあるトイレに消えて、1時間も2時間も帰ってこないのだ。

    オコエが反論する。

    「サボったのはぼくだけじゃありません。チームのみんなと、サボる番を回してたんです。トイレで寝てたやつもいれば、近くで焚き火にあたっていたやつもいる。遊びみたいなもんだったんです」

    病気と震災

    そうした中で、野球を続けるべきか、オコエが最も真剣に考えた時期がある。「大腿骨頭すべり症」という病気を患った中学2年のころだ。

    成長期特有の病気で、股関節の付け根がずれ、まともに歩くことすらままならない。股関節を固定するボルトを2本入れる手術で1ヵ月入院し、4ヵ月のちにボルトを抜く手術でまた2週間入院する。

    「退院してからも半年間走れなかった。もう野球をやるのは厳しいかも、と思いました。この身体じゃしんどいなって」

    そんなオコエの胸中を察し、渡辺はよく「グラウンドへ出てこい」と声をかけた。ひとりで部屋に引きこもっていても、気分が落ち込むだけだ。松葉杖を突いてでも練習場に来れば、仲間と触れ合える。みんなと冗談を言い合って笑うだけでも気分が変わるから、と。

    そして、オコエがまだ満足に身体を動かせなかった'11年3月11日、あの東日本大震災が起こったのだ。オコエが言う。

    「震災があってから1ヵ月ほど、チームも活動を自粛してたんです。その代わり、募金の呼びかけとか、奉仕活動をやってました。その間ずっとボールに触らないでいると、やっぱり野球がやりたくて身体がウズウズしてきたんですよ」

    病気と震災が、野球に取り組む姿勢を変えたのかもしれない。オコエはこの時期を、「自分の中で野球が遊びから本気になったとき」だと言う。

    高校でも野球を続けるのなら、もっと真面目にやらなければならない。野球を諦めざるを得なくなれば、そこから勉強に切り換えて大学を目指すことにしよう。そういう目標を立て、両親と相談し、強豪の関東第一高校への進学を選択する。

    そんなオコエが入ってきたころのことを、関東第一の監督、米澤貴光はほとんど覚えていない。

    「最初は全然、目立つ子じゃなかったです。学年ごとに部員を集めても、集団の前に出てこない。引っ込み思案で、いつも後ろに隠れていました」

    オコエにとって、関東第一は東村山シニアとはまったく別世界だった。自分と同い年、自分より小さな身体で、自分より野球のうまい選手が大勢いる。このままでは1年でおしまいだと思った。

    「1年秋の都大会で優勝したメンバーの半分が、同級生だったんですよ。ぼくはレギュラーになれなくて、同じ代のみんなに上に立たれているような気がしました。ここでもっと頑張らないといけないと、またスイッチを入れ直した時期です」

    素質だけでは生き残れない

    その年の冬から猛練習に打ち込んだ姿が、米澤に認められた。2年春の選抜大会ではベンチ入りを見送られたが、春の都大会でついに背番号18を与えられる。

    3回戦で初出場すると、いきなり初安打初打点初盗塁。4回戦で高校1号となる先頭打者本塁打を放った。

    全国にオコエの名前を轟かせたのは、3年夏の甲子園、100周年記念選手権大会だ。

    印象的な風貌と相俟って、攻守にわたり躍動するオコエの姿は、高校野球ファンの心を鷲掴みにした。とりわけ、3回戦の初回満塁のピンチで、センターの頭上を越えようかという当たりに飛びついたスーパーキャッチは、いまも語り草となっている。

    しかし、東村山シニアで渡辺が修正しきれなかった打撃の欠点は、関東第一でもそのまま残ってしまった。米澤が言う。

    「正直言って、ウチでは悪い癖を取り除くところまでしかできなかった。手足が長いものだから、力任せに振り回してるでしょう。だからスイングが汚い。もっときれいな打ち方にしてプロへ送り出したかったんですが」

    米澤も渡辺と同じように、オコエの打撃を「力任せ」と指摘した。さらに「スイングが汚い」という表現も池山の「スイング軌道が安定しない」という言葉と重なる。
    オコエ自身はどう考えているのか。指導者たちが語った辛辣な言葉を、率直にぶつけてみた。

    「頑張らなきゃいけないとは思ってます。ぼくの場合、走塁や守備に比べれば、確かに打撃が一番落ちますから。でも、1年目で本塁打も打ってるし、そんなにダメだとは思っていません。

    指導者に言われたことの全部が全部、プラスになるわけでもない。自分でやってみてダメなものは、すぐに消すようにしてます」

    そんなオコエの話に耳を傾けながら、私は入団1年目の日本ハム・中田翔を思い出した。'08年、身体が硬く、太り過ぎていた中田は、二軍で基礎体力づくりからやり直しを迫られた。

    その中田をどやしつけるように指導していた二軍監督が、現ソフトバンク二軍監督の水上善雄。中田の成長をじっと待ち続けていた監督が、ほかならぬ現楽天監督の梨田なのである。

    中田が一軍に定着したのは4年目の'11年。それまでの3年間、素質だけではプロで生き残れないと、中田は知らされた。いまのオコエに足りないのも、あの辛酸を舐めるような経験ではないか。

    「ぼくは、野球を楽しみたいんですよ。真面目にやるのも大切ですけど」

    そう明るく笑うオコエが、プロの顔になるのは何年後のことだろう。

    (文中敬称略・了)

    「週刊現代」2017年5月27日号より

    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51790?page=4

    1: 2017/05/21(日)19:51:01 ID:wVd
    怪我で出遅れるも現在は復帰
    なお2軍公式戦出場なし

    今週末は遠征して育成選手中心の実質3軍戦である独立リーグとの試合に出場した模様
    結果
    20日(土)
    右犠飛 三振 三振 二ゴ 四球
    21日(日)
    三振 中飛 三振 本塁打(場外満塁) 三振

    【楽天・オコエ瑠偉の現在www⇒「あの外国人みたいなフォームは健在なんか?」】の続きを読む

    1: 2017/05/18(木) 12:52:49.51 ID:uLQeJYgWM
    怪我も回復したのに二軍戦出場無しなもよう

    【2015年楽天ドラフト1位オコエ瑠偉外野手、何故か干される】の続きを読む

    1: 2017/05/12(金)13:20:15 ID:ntR
    だれ?

    【各球団話題にも挙がらなくなった期待されてた選手】の続きを読む

    1: 2017/05/13(土) 22:26:30.33 ID:2rpwZj6gd
    楽天の戦力が揃ってしまった模様

    【【悲報】オコエさん、今年は出る幕が無さそう】の続きを読む

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